
























| ベルクハイデの遠近法について | ||
| 17世紀のオランダ絵画を見ていますと、一点透視による 遠近法が完璧なまでの完成を見せています。 遠近法のはっきりした例を一枚、下へ掲載いたします。 Pieter Saenredam, Interior of the Church of St.Bavo, Haarlem ![]() 1648年。Source: visipix.com。上の絵の教会内部です。 ベルクハイデの作品も、この一点透視による遠近法表現が 完璧と言えますが この方の場合、この一点透視を超え、二点透視法を用いた 作品が、複数枚あります。 上に掲載した3枚の作品の内、1番目と3番目がこれに あたります。 三番目の作品と同じハーレムのSt Bavo's教会を描いた 別の作品がありますが、この作品は、教会がかなり斜め の角度から描かれていまして、上に掲載した作品以上に はっきりとした二点透視になっています。 (残念ながら、掲載できる画像がありません。 また、ベルクハイデは、兄・弟二人います。 上に掲載した作品は、弟の方の作品です。 ヨップ・Jobと言う兄も、絵を描いています。 この方の作品にも、上記技法の作品があります) 大雑把ではありますが、過去および同時代の作品を 調べてみた範囲では、二点透視法をうかがわせる作品は ほとんどないと言えるほどに少ないです。 (古くは、例外的に、イタリア・ルネッサンスの時期 ギストと言う人の作品にこの技法が見受けられますが 完成度が低です) この二点透視法が、壁や柱、天井、床など全体に認められる同時代の数少ない画家には、 フリート(Hendrick)、ウイッチ、ハウクヘーストがいます。 これらの画家に共通していると思われる点は、デルフトの教会内部を描いた作品にのみに見受けられることです。 制作年代は、1650年から1650年頃です。 ベルクハイデの兄の作品も、二点透視が確認出来るのは やはり教会内部を描いたものです。 ハウクヘースト, Gerard Houckgeest, New Church, Delft. ![]() source: visipix.com. 他に、この技法が作品の一部に認められる同時時代の画家には、 バッセン、メッツー、ステーン、フェルメール、ホーホ などがいます。 バッセンの場合は、「Renaissance Interior with Banqueters」他二点ほどの作品において、両方ともに床面に認められます。 メッツーの場合は、「A Man Writing a Letter」と言う作品の床面に認められます。 ステーンに関しては、作品名が分からないのですが、一枚は あることを確認しています。 フェルメールの場合には、「音楽の稽古」など、4枚ほどの 作品の床面に、はっきりと認められます。 フェルメールの場合は、全体は一点透視の作品でも、箱形の 家財などに、かすかに二点透視的描き方が見受けられる 作品が、少しあります。 さらに、ホーホの場合も、「Family Making Music」 と言う作品の床面に認められます。 バッセン、メッツー、ステーン、フェルメール、ホーホに 共通していることは、床面だけにこの技法が、ほぼ確かな 状態で認められることと、この床面が、明暗のはっきりした 市松模様のタイル状石床であることです。 この二点透視法は、18世紀になってから、そこそこ見られる ようになる技法のように思います。 この技法を用いた18世紀の代表的な画家を一人だけあげて みますと、イタリアのピラネージがこの技法の代表格と 言えるように思います。 |
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| ピラネージの作品 | ||
![]() source: visipix.com. 一点透視的描き方と二点透視的描き方では どのようにイメージが違うのか? 私が3DCGで制作(レンダリング)してみた画像と 全体的には一点透視で、床面は二点透視的な バッセンの作品を一枚、下に掲載してみます。 |







| オランダにおける二点透視法の理論について | ||
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この時代までに、二点透視法の理論のことを、書いた 人がいなかったのか? 調べてみました。 二人いました。 一人は、シモン・スデヴィン (ステヴァンとも、1548-1625)と言う方です。 もう一人は、ハンス・フレデマン・デ・フリース(1527-1607)と言う方です。 二人とも、1604〜5年と同時期に遠近法のことを著しています。 また、これらの本は、オランダ総督であったマウリッツ(Prince Maurits of Orange)に贈呈する形で著されています。 まずは、シモン・ステヴィンから。 ブルージュ(ベルギー)で生まれ、特にオランダで多様な実績を残した方です。 数学、物理学、遠近法、建築学、地理学、簿記、音楽と 多彩な学問的実績を残しています。それも、実益的な 技術が多かったようです。 上記学問分野だけではなく、軍事・政治面でも重要な 役割も果たしているようです。 現代の私達にも役だっていて、よく知られている事項を 挙げてみますと、下記のようなものがあります。 ・数学では、十進少数を確立しています。 現代使っている 0.8とか0.024などの1以下の表現・10ごとに桁上がり させる考えです。 ただし、表記は現代のものとは違っていたようです。 ・物理学の面では、「力の平行四辺形」を確立して います。 ・簿記・会計関係では、現代の会社決算で最も重視され る損益計算書、貸借対照表の確立に、大きく貢献して いるようです。そのため、「近代簿記法の祖」とも 言われています。 ・音楽では、十二平均律を確立しています。 難しいいですが、2の12乗根を使う考えだそうです。 変わったところでは、陸上ヨットを設計・制作して います。 帆で風を受け、動力とし、車輪を動かす乗り物です。 版画が残っていまして、大小2台の陸上ヨットが 描かれています。(この版画の原画は、私の静物画の ページで少し扱っているGheyn Uが描いた絵です) シモン・ステヴィン, Land Yacht for Prince Maurits。 1603年。Gheyn U原画、SwanenburgとSichem Tによる版画。 ![]() source: visipix.com。カットしてあります。 シモン・ステヴィン, Land Yacht for Prince Maurits, 1649年。 ![]() source: wikipedia。年数が少したってからの版画です。 このシモン・ステヴィン(ステヴァン)の1605年の著書に MATHEMATICORUM HYPOMNEMATUM と言うものがあります。 この中に二点透視法と考えられる図解が多数あります。 この本は、ラテン語で書かれていますが、1608年には オランダ語でも出版されたようです。こちらの方の タイトルは、Wiskonstighe Ghedachtenissenです。 Webで見れるのは、ラテン語のものだけのようです。 現在の私には、文章部分の解釈がほとんど出来ません。 シモン・ステヴィンの業績を、1つ付け加えるます。 当時は、ラテン語でなければ、学術的文献とはみなされ ませんでしたので、多くの科学的文献がラテン語で 書かれていました。これをオランダ語に翻訳し オランダの人達に知識を広める面でも大きな役割を 果したと言います。 原典の図をそのまま掲載することが出来ませんので 私が、書き直したものを、一図、下へ掲載致します。 シモノ・ステヴィンの綴りは、Simon Stevin(or Steven or Stevins or Stevinus 等です) |



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この図も、私が原本を元に描いたもので 原本の図には、さらに下側の足部分まで描かれていましが 上部のみ描きました。 この図の左側にはラテン語の文章が、書かれています。 文章の出だしが、 Hanc vitri imaginem というものです。 hancは、英語thisに相当するラテン語huncの体格表現 vitriは、ガラスを意味し、imaginemは、英語のイマジン 日本語の想像、推測、推量に当たるようです。 全体としては、「このガラスで出来た像目当て器を」 程度になるのではないでしょうか? 下へ追記したシモン・ステヴィンの文章内容から考えても この機材は、光景・情景を正確かつ十分に把握できる ガラス製の機材で、絵を描く人のためのものと 言えるようです。 この器具と同じ原理の大型の物は、1500年代の前半に デューラーによって、すでに解説されています。 また、1ページ前にAlberto Dureroと言う文章も見受け られます。 ただ、移動可能で小型と思われる物を見るのは 私としては、この図が始めてです。 (デューラーは、ドイツ語、英語、オランダ語 フランス語でAlbrecht Dűrerと書きますが スペイン語では、Alberto Dureroです) この器具は、対象物を写実的・遠近法的に捉えるのに 大変意味のある物と言えます。 言いかえれば、この器具の額縁の様な縁のあるガラス面に 写るような映像を、目の前にないものでも、幾何学を 利用していかに正確に再現すらかが、遠近法理論の 役割といえます。 図の右側に、上の丸くなた板状のも物がありますが 上の部の丸い所に目を当ててガラス面を見る使用方法と 推定されます。 (前のページの文章から推定して、丸い部分には孔が あいていると考えて間違いないようですが,観閲できた 原本の図では、全体が黒くつぶれてしまっていて 確認することが出来ませんでした) 目を当てる部分が、遠近法で言う視点にあたり ガラス面が、画面・透視面にあたります。 この器具を使用して正確に対象物を捉えようとする場合 ガラス面に方眼状の線が入っていることと、手元で写し 取るのに使用する紙にも同じように方眼状の線を入れて おく必要があると思います。 (別の方法として、ガラス面に透明に近い紙類を貼り 見える情景を写し取る方法も、ありうるのかもしれ ません) カメラ・オブスクラと言うレンズを使用した、より複雑な 器具が普及した時期が、はっきりしていないようですが 上の器具でも十分写実的で遠近感のある絵を描けたように 思います。(根気は、必要でしょう) カメラ・オブスクラの例 ![]() wikipediaより,Stefan Kuhn氏撮影,Science Museum Londonの展示品 17世紀のオランダ絵画の中には、カメラ・オブスクラの 様なレンズを使用して描いたのでなければ、描けない と感じる作品が何点かありますが 遠近法的に完成度の高い作品の多くは、カメラ・オブ スクラの様なものではなく、シモン・ステヴィンの本に 掲載されている図の様な器具を使用しながら、描き上げた のではないか、と私には思えて来ました。 また、遠近法的な描写をこのような器具を利用して 直接描く方法と、卓上で幾何学的に描く方法は 片方があれば、もう片方は不要と言うものでもではなく 相補うもののように思います。 ちなみに、上の解説図、地面に接する部分まで描かれている原本の図は、上記二点透視の理論を実践しているかのように二点透視的で遠近感のある描き方が、なされています。 |
| 上の機材を掲載している「7 Caput de vitro」という章の 始まりの文章だけですが、ラテン語から英語へ、翻訳を試して みましたので、下へ掲載致します。 (7 Caput de vitro=第七、ガラスの章) ただ、原文のスペルのままですと、WEB翻訳でも、辞書によっても、該当する単語か見当たらない言葉かかなりあります。 これらの単語は、近いと思われる単語に推定で置き換えてあります。 例:Vspiam→Uspiam, sciagraphiae→scia_graphia. 修正した原文のラテン語: Uspiam , & nisi memoria me fugit, in Alberto Durero legife memini , qui scia graphia proprietates explicare conatus, subjectum adumbratum per vitrum planum intueri, illudque, quod per vitrum cernitur, in vitro pictum esse imaginari, & sibi quasi persuadere pracipit. quod illa vera perfectaque umbra sit, & ad oculo vero conspecta. Hac umbra descriptio (qua nos, ut vitrum definiremus, permovit) ILLUSTRISSIM PRINCPI, adeo apta visa suit, ut umbram in vitro non tantum imaginatus sit, verum etiam deformarie ac pinxerit, eque sini vitrum, cujus imago subjecta est parari jussit 翻訳した英語(google翻訳を使用): Anywhere, and unless he has fled from me the memory of, giver of laws in Alberta Durero I remember, how you know it tried to explain the properties of the graph, the subject of the sketchy look at the plane through the glass, making it, which is seen through the glass, in the glass painter had been to imagine, and repeat the principall to persuade up to be. that that a shadow to the true and perfect, and to the eye, they stand the sight. A description of the shadow of this (by which we, that the glass be defining and move their) The most illustrious Prince, seemed to fit so much so made a decree, as a shadow in the glass is not only pictured to himself, but also deform the painted, and, have equal bays the glass, image of which is to be prepared is subject to commands. 翻訳した英語は、文法等、おかしいかと思いますが 単語から来るイメージで、ニュアンスがかなり分かるのでは ないでしょうか。 |
ハンス・フレデマン・デ・フリース(Hans Vredeman de Vries, 1527-1607)について。 この方は、1573年にはすでに、二点透視的絵(図)を描いています。 街中に設置する井戸のデザイン集24図の中に多数認められます。 下へ1図、掲載いたします。 ハンス・フレデマン・デ・フリース、井戸の図, 1573年。 ![]() source: ニューヨーク・パブリック・図書館。レタッチ。 この方は、画家と言うより、建築(建物、街、庭園、廟、上記の装飾、要塞等)のデザイナー、エンジニアと言える方です。 また、オランダだけでなく、フランクフルトやプラハでも活躍したと言います。 1604〜5年に著した「Perspectia」(遠近法)と言う本には、一点透視および二点透視の遠近法が多数図解されています。 これらの図解は、画家にとっては大変に分かり易いと思われる実用的なものです。 この本は、1623年と1633年にも出版されているようですし、実用性が評価され、神聖ローマ帝国内でも広く読まれたと言います。 この本に載る図解は、70図以上ありますし、大きく明解です。 遠近法の中でも二点透視に関係した図を二枚、下へ掲載いたします。 ハンス・フレデマン・デ・フリース、「遠近法」の解説図 A ![]() 著作権フリーの本を使用。レタッチ。 ハンス・フレデマン・デ・フリース、「遠近法」の解説図 B ![]() 著作権フリーの本を使用。レタッチ。 話がそれますが、この方の図は、陰影のしっかりしているものが多いです。 遠近法と陰影法の両方で奥行き感・立体感を出しています。 この特徴、遠近法と光の方向がはっきりとした陰影法とが合わせ用いられている作品が多いことは、17世紀のオランダ絵画全体にも言えるように思います。 室内などでも、窓から差し込む自然な光の表現が優れています。 ただ、例外を感じるのが、レンブラントの作品です。 レンブラントの油絵の中で、テュルプ博士の解剖学講義、夜警 宗教画などの光は、かなり人工的です。 舞台などで用いるスポット・ライトを複数使用した時のような光となっていまして、主要な人物達を浮き上がらせる光・陰影の使い方がされています。 また、ハンス・フレデマン・デ・フリースのことを調べていて分かったオランダ絵画の情況があますので、下へ記載いたします。 17世紀中ごろのオランダには、650〜700人の画家がいたと言います。 作品数も多く、毎年65,000点あまりの作品が作り出されたとも言います。 これらの作品のある程度の量が外国でも販売され、制作当時から広く西欧の他国へ広がっていたようです。 他国への広がりは、絵画作品のみに限らず、画家自身が移住することも少なからずあったと言います。 (参考資料:「17〜18世紀におけるオランダ芸術とバルト海空間」 朴a洙 著、呉美京 日本語訳。WEB上、PDF形式にてご覧にな れます。別資料によりますと、画家650〜700人と言う数字は 芸術家の組合・聖ルカギルドの登録されていた人数のよ うです。これは、住人2,000〜3,000に1人の割合になる そうです) この時期、オランダがイギリスへ与えた美術上の影響について: easel(イーゼル)、landscape(ランド・スケープ)(風景画) sketch(スケッチ)、maulatick(腕杖)、stipple(点刻法)などの言葉は この時期、オランダからイギリスへ伝えられた言葉であると言われて います。(参考文献「英語発達小史」H.ブラッドリ著。私の調べでは、still life・静物画も、そうのようです) 上記以外の遠近法関係者について: 1600年の中頃にアブラハム・ボス(Abraham Bosse, 1602-1676)が、銅版画や遠近法の本を書いています。 何冊か、めくる程度に見ることが出来ました。 私には、機械製図のような解説が多いように感じられます。 現代のテクニカル・イラスト的です。 フランスの方です。 |




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この人物の着ている服は、日本の着物と思われます。 一枚上の天球儀を見ている人物の服も、そうのようです。 日本の着物は、かなりの流行になっていまして,かなりの 画家が 着物を着た人物を描いています。 男性が着ている場合が多いです。 着物を着て、後世に残る肖像画を描いてもらうのを 誇りにしているように思われます。 現在風にいえばカメラ目線、絵を見る人側に肖像画の人物の 目線があるような作品の多くは、着物の下に着用している洋服が高級なもの、と思われるものです。 フランス語やスペイン語で"japon"は、"日本"を意味しますが、オランダ語で"japon"は、"着物,dressing gown"を意味しています。 オランダ語の"日本"は、"japan"です。 上の絵の服が、着物であることを指摘している記述は 現在のところほとんどないようです。 私、17世紀オランダ・ベルギーでの着物の流行について 調べておりますが、フェルメールまでが描いているとは 思っておりませんでした。 たまたま、"japonse rok"(japonの元語)と言う言葉で ネット検索をかけていまして気づきました。 このことに触れているホームページは、1件のみしか 見つけることが出来ていません。 (このホームページは、見れなくなっています) フェルメールは、着物を所有していたと推定されています。 当時のオランダに、前開きで、袖が広く、丈が長く、幅に 余裕のある日本の着物に似た服が、着物とは別になかった のか?なども調べてみておりますが、ほとんどなかった と思われます。 特に、絹のような柔らかな作りのものは、なかったようです。 隣の国ドイツを中心に、"Schaube"と言った前開きのコートがあり、デューラーなども描いていますが、生地は固く 襟には毛皮をあしらったものが多かったようです。 |
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Schaube![]() |
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ただ、着物風の服を調べていて、現在、判断できないもの もあります。 レンブラント銅版画で"B126 Pharisees in Temple", ユダヤ教系の教会の様子を描いたものですが、着物風とも 思える服が描かれています。これがどのようなものなのか 判断できません。 |
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Rembrandt B126 Pharisees in Temple![]() |
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日本の着物は、当初、日本・幕藩要人からの贈答品であっ たようですが、人気がそうとうあったようで、日本での 注文生産、さらにはインド商館での制作など、供給を 増やしていったといいます。 また、オランダのみならず、他のヨーロッパ諸国へも 販売したともいいます。 着物がオランダへ持ち込まれた当初は、資産家のステー タスシンボル的意味が強かったようですが、西洋の体に ぴったりした服とは違い、くつろいで着れることと 温かくもあって実用的な面がかなりあったようです。 18世紀初め頃は、かなり普及し、一般的な人にも手が 届くようになり、外出時にも着用されたといいます。 18世紀終わり頃には、外で着るようなこともなくなり 部屋着・ガウンとして定着したといわれています。 また、16から17世紀(安土桃山時代および江戸時代前期)頃の日本の着物は、袖が、あまり大きくはなく、手の先に 行くにしたがって細くなって行く形が、かなり一般的で あったと言います。 服の幅も、広めであったと言いますし、帯は細めで男女 ともに腰で結ぶのが一般的でした。 17世紀でも、寛文、元禄頃になると、袖の幅は広くなり 始めます。 上のフェルメールの絵の人物が着ている着物は、「綿入れ」 (別名"丹前","どてら")のように見えますが、フェルメールの時代に、日本に「綿入れ」があったかどうかはっきり しません。 オランダで中綿を入れた可能性もあるように思います。 1600年代の始め頃には、絹の端切れなどを少しだけ 入れた物はあったようですが、「綿入れ」は、ほとんど なっかと思われる記述が残っています。 1600年代後期・元禄頃には、着物としての「綿入れ」 はあったようですし、江戸時代後半には、相当に一般的に なっているようです。 着物とは言えないのですが、着物と同じ形をしていて 中綿を入れた物に「夜着・よぎ」と言う、袖も襟もある 寝具・ふとんが、あります。 この「夜着」の類は、室町時代からとも、1600年代の初め 頃からとも、言われています。 いわゆる「かいまき・搔巻」の類です。 掛け布団として使いますが、肩が、すっぽりと入り なかなか温かいものです。 着物と夜着の形の違いは、夜着の方が袖が長い程度の ようです。 |
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下の写真は、徳川綱吉(1646-1709 将軍:1680-1709)の 寝間着と伝えられている物です。フェルメールの描いた 着物に襟などの形が、よく似ているように思われます。 |
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![]() 「日本歴史考古学」後藤守一著、昭和12年より。 |
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| 同時代の日本の絵、1650年松浦屏風(婦女遊楽図左),岩佐又兵衛(1578-1650)。 | |
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| source: wikimedia commons | |
2011年9月24日追記:すでに17世紀前半には「綿入れ」が有り かなり普及していたと言える資料がありました。 ジョアン・ロドリーゲスの「日本教会史」です。 この本には、綿入れとしての詰め物に、真綿(絹の屑)と木綿が あったこと、庶民用には木綿が用いられこと、木綿や麻の布に 綿を詰めた物を「布子(ぬのこ)」と呼んだことなどが書かれて います。また、木綿の急速な普及についても書かれています。 (参考にした本は、岩波書店、大航海時代叢書 \ 日本教会史 です) 着物についての別の話を、"ヤン・ステーン"及ぶ"続編"に 記述しております。 過去、オランダを中心とした日本の着物の流行について 日本に紹介、記述されている方は、私の知る限り、 クライナー・ヨーゼフ(Josef Kreiner)氏、 ただ一人だけのように思われます。 |
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(2008年7月) |
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| 少し長くなりますが、オランダ17世紀
の絵画とその環境を ブルクハント著鈴木成高訳「レンブラント」昭和24年より 一部引用し、ご紹介いたしす。 (内容は、ブルクハント氏が1877年に行った講演のものです) オランダにおいては、17世紀の芸術がまさに始まろうとするとき そこには白紙の自由さがあった。と同時にまた寄辺のない心細さが あった。 オレンジ公は芸術のことなぞ一切還りみようとはしなかったし またカルビン派の教会は絵画とはおよそ無縁のものであった。 ただわずかに裕福なる市民が絵画の味方となって、注文を出したり 買い上げたりするというだけにすぎなかったのである。 民兵団や町方役人たちの群像画祭の催しのようなものも、半官 半民というか、あるいはむしろ個人注文の部類に属するもので あって、各人がめいめい画面の中に登場している自分の肖像に たいして揮毫料を支払うといったような仕組みになっていた。 ドゥーレン画だとかレゲント画だとかいうものは、すなわち そういったものである。 そのほか各種の絵画、すなわち聖書物語や神話物語、肖像画 風俗画,海洋画、あるいは各種静物画等等も、すべて専ら個人の 住宅のなかに飾られておった。 そのほかに当時のひちびとのあいだには銅版画を集める風習が あった。 総じてオランダ人がもっている蒐集癖は、芸術にとってはよい 味方であったといえる。 同様にまた気象が幸いしたという面もあったであろう。 それはひとびとをして一年の大半を屋内にとどまらしめる。 外観は概ね質素なこれらの住居を内部において飾るということが いまや圧倒的な趣味となっていったのであった。 けだし当時のオランダは、ヨーロッパ中のどこの国よりも強盛かつ 富裕な国となった。(注:貿易大国の意味だと思います) のみならずかの戦慄すべき死活の戦(注:スペインからの独立戦争) を見事に戦い抜いた後において、それはもはやこの地球上の何者から も何事をも学ぼうとしない、生活のあらゆる面に固有のものをどこま でも護り通そうとする誇り高き民族となっていた。 過去の時代からの、また外来的なものからの影響で、ひとがなを そのもとに追従していたものはといえば、聖書が唯一のものであり また古典文学がある程度そうであっただけにとどまる。 その他一切のものは、思想においても生活様式においても ことごとく純粋に国民的なるものであった。 芸術もまた同様に、すでに腐朽せる前世紀の諸伝統を篩い落とした のちにおいて、いまや完全に国民的なものとなりつつあったのだ。 ひとはただオランダを、その人間を、その禽獣を、その風景をのみ 描こうとしておった。 ただそれらのすべてがより完全なものに、より卓れたものになろうと していただけなのであった。 |








| 続編・VOLUMEUも制作いたしました。さらに50枚ほどの風景・生活画がご覧いただけます。 | |
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| レンブラントの版画・素描作品を掲載したページです。 | |
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| ヤン・ステーン、ユーモラスで屈託のない絵は見事です。 | |
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| 明るく爽やかな風景画を描いた、画家ヨース・デ・モンペルの作品集。 | |
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