


当ページは、17世紀オランダの風景画と生活画、本編、続編、ヤン・ステーンの3
ページに
またがって記述している内容を、1ページにまとめ、ある程度補足したものです。
日本・中国から陶磁器や漆器が西欧に渡り、珍重がられたことは
よく知られているところですが、日本の着物に人気があったことは
あまり知られていないように思われます。また、この流行に
ついて日本で記述しているものも、ほとんどないように
思われます。私の知る限りクライナー・ヨーゼフ氏が
図録「ケンペル展」に記述されている程度です。
このページで私が新たに試みているのは、おもに
当時のオランダ
西欧絵画に描かれている着物を
ご紹介することです。
絵を見ていただくだけでも、着物の流行が
相当であったことが分ると思います。
(リンク先の映像もご覧ください)
着物の流れ・流行につ
いての研究は、Josef Kreiner氏の
研究成果による内容が、かなり多いです。
オランダでの着物の言い方は、"Japon","Japonse rok"
"Japonsche rock","Kamerjas"などです。
フェルメール、 「地理学者」。 着物としての判断者:外国のホームページ。

フェルメールと日本の着物
および、着物人気の概観
上の人物の着ている服は、日本の着物と思われます。
下の天球儀を見ている人物の服も、そうのようです。
日本の着物は、かなりの流行になっていまして,かなりの画家が
着物を着た人物を描いています。
男性が着ている場合が多く、資産家から始り、学者、学生、
画家などの
芸術家が好んで着たようです。
現在に残る肖像画で、共通して感じられるのは
着物を着て、後世に残る肖像画を描いてもらうのを、誇りにして
いるように思われることです。
現在風にいえばカメラ目線、絵を見る人側に肖像画の人物の
目線があるような作品の多くは、着物の下に着用している洋服が
高級なもの、と思われるものです。
フランス語やスペイン語で"japon"は、"日本"を意味しますが
オランダ語で"japon"(ヤポン)は、"着物,dressing gown"
を意味しています。
オランダ語の"日本"は、英語と同じ"japan"です。
上の絵の服が、着物であることを指摘している記述は、現在のとこ
ろ、ほとんどないようです。
私、17世紀オランダ・ベルギーでの着物の流行について調べてお
りますが、フェルメールまでが描いているとは思っておりません
でした。
たまたま、"japonse rok"(japonの元語)と言う言葉で、
ネット検索をかけいて気づきました。
このことに触れているホームページは、1件のみしか見つける
ことが出来ていません。
このことに触れているホームページは、下記です。
http://www.johannesvermeer.info/verm/house/hz-japonserok-eng.htm
(8月27日追記、このホームページは見れなくなっています)
上のサイトは英語表記でしたが、オランダ語の下記サイトは見れます。
http://www.johannesvermeer.info/verm/house/hz-japonserok-nl.htm
フェルメールは、着物を所有していたと推定されています。
当時のオランダに、前開きで、袖が広く、丈が長く、幅に余裕の
ある日本の着物に似た服が、着物とは別になかったのか?なども
調べてみておりますが、ほとんどなかったと思われます。
特に、絹のような柔らかな作りのものは、なかったようです。
隣の国ドイツを中心に、"Schaube"と言った前開きのコートがあり、
デューラーなども描いていますが、生地は固く、襟には毛皮を
あしらったものが多かったようです。
Schaube

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ただ、着物風の服を調べていて、現在、判断できないものも
あります。
レンブラント銅版画で"B126 Pharisees in Temple"
ユダヤ教系の教会の様子を描いたものですが
着物風とも思える服が描かれています。
これがどのようなものなのか、判断できません。
Rembrandt B126 Pharisees in Temple

REMBRANDT'S ETCHINGS 1912
レンブラントの作品を調べていて、現在感じますことは、描かれている服に
前開き、前合わせのものがかなりあります。ただ、これらの絵は、
多くが、新・旧聖書の物語の場面で、ターバン風のかぶり物を
かぶった人に多いようです。ターバン風のかぶり物がない時
でも、現代のトルコ付近より南・東側をイメージした時に
この描き方をしているように、私には思われます。
日本の着物は、当初、日本・幕藩要人からの贈答品であったようで
すが、人気がそうとうにあったようで、日本での注文生産、さらには
インド商館での制作など、供給を増やしていったといいます。
また、オランダのみならず、他のヨーロッパ諸国へも販売したとも
いいます。
幕藩要人からの贈り物の数だけでも、毎年かなりあったようです。
将軍家への謁見時、将軍家から贈られたものだけでも
毎年20枚から30枚あり、全体の枚数が分っている
ケンぺルの二度目の江戸参府の年、元禄5年(1692年)には
旗本などからの物を含め、使節団全体で、123枚の着物が
贈られているそうです。
この内一部は、日本の世話役に贈られて日本に残ったようですが
ほとんどが、オランダに持ち帰えられたといいます。
着物がオランダへ持ち込まれた当初は、資産家のステータス
シンボル的な意味が強かったようですが、西洋の体にぴったりした
服とは違い、くつろいで着れることと温かくもあって
おもに室内着として、実用的な面がかなりあったようです。
18世紀初め頃には、かなり普及し、一般的な人にも手が届くよう
になり、外出時にまで着用されたといいます。
18世紀終わり頃には、外で着るようなことはなくなり、部屋着・
ガウンとして定着したといわれています。
また、私の調べでは、16から17世紀(安土桃山時代および
江戸時代前期)頃の日本の着物は、袖が、あまり大きくはなく
手の先に行くにしたがって細くなって行く形が、かなり一般的で
あったとの資料があります。
服の幅も、広めであったと言いますし、帯は細めで男女ともに
腰で結ぶのが一般的でした。
17世紀でも、寛文、元禄頃になると、袖の幅は広くなり始め
ます。
江戸時代前期の着物の形。

「近世風俗志」 昭和4年本。
上のフェルメールの絵の人物が着ている着物は、「綿入れ」
(別名"丹前","どてら")のように見えますが、フェルメールの
時代に、日本に「綿入れ」があったかどうかはっきりしません。
オランダで中綿を入れた可能性もあるように思います。
1600年代の始め頃には、絹の端切れなどを少しだけ入れた物は
あったようですが、「綿入れ」は、ほとんどなっかと思われる
記述が残っています。
1600年代後期・元禄頃には、着物としての「綿入れ」はあった
ようですし、江戸時代後半には、相当に一般的になっているようです。
着物とは言えないのですが、着物と同じ形をしていて、中綿を入れた
物に「夜着・よぎ」と言う、袖も襟もある寝具・ふとんが、あります。
この「夜着」の類は、室町時代からとも、1600年代の初め頃から
とも、言われています。いわゆる「かいまき・搔巻」の類です。
着物と夜着の形の違いは、夜着の方が袖が長い程度のようです。
下の写真は、徳川綱吉(1646-1709 将軍:1680-1709)の
寝間着と伝えられている物です。フェルメールの描いた着物に
襟などの形が、よく似ているように思われます。

「日本歴史考古学」後藤守一著、昭和12年より。
1600年の初め頃、ポルトガルの人が日本で見た着物の印象を記述したも
のが残っていますが、それによりますと、全体的に、
驚くほど華やかなものであったそうです。
同時代の日本の絵,1650年松浦屏風(婦女遊楽図左),岩佐又兵衛(1578-1650)。

wikimedia
同時代の日本の絵,1650年松浦屏風(婦女遊楽図右),岩佐又兵衛(1578-1650)。

wikimedia
1650年以前、「彦根屏風」部分、伝・岩佐又兵衛(1578-1650)。

浮世絵大成、昭和7年。絵の右3分に1付近に縦の線があるのは、本の折れ目です。
フェルメール、 「天文学者」 1668年。 着物としての推定:安藤

同じ天文学者を扱った版画に、これも着物ではないかと
思われる作品がありましたので、下へ掲載いたします。
「人の職業」(1694年初版出版)ヤン・ライケンと息子著・画
「天文学者」

ヤン・ステーン、Second Wife of Gerrit Gerritsz Schouten
1665年。着物の推定:安藤

上の絵は、紋付の和服と思われますが、紋の位置が
和服の紋の位置と完全に一致しています。ただ
紋の文様がイマイチはっきりしません。
生地は絹で、金蘭、緞子、錦といわれる類の
相当な高級品と思われます。
五つ紋タイプの紋の位置の参考として
下に江戸時代の日本の絵を一枚
掲載いたします。1700年代
前半頃の絵です。
推定
作者
:西川祐信または西川系、 「風俗鏡見山」。

日本風俗図絵 大正3年本を使用。
上の絵は、普通の町方の若い女性を描いたものと思われますが
この絵のように町人の人が紋付きの着物を着ている情景が
他にもかなりあります。この時期、紋付きの着物が
かなり広く着られていたようです。
着物の紋について、江戸時代末後期の本に
書かれている内容をご紹介いたします。
「近世風俗志」を口語訳にした
「近世風俗辞典」人物往来社
より引用いたします。
|
紋 記号は、俗に定紋とか家紋、あるいは、紋といって |
|
紋の位置、前。

「近世風俗志」 昭和4年本。
紋の位置、背。

「近世風俗志」 昭和4年本。
ヤン・ステーンの描いた、上の絵と下の絵が、離れて
しまいましたが、ご夫婦の肖像画です。
ヤン・ステーン、Gerrit Gerritsz Schouten 1665年。 着物としての推定:安藤

フェルメールの上2枚の作品と下の作品は、着物の生地が、何であるか
はっきりしませんが、他の作品の多くは、生地が絹
と思われるものが、ほとんどです。
ただし、現存する着物の写真には、綿製と思われるものがありますし
古い1766年の、オランダ-英語辞書に、"Een katoene japon"
と言う言葉がみられ、これは"綿製の着物"を意味していると
思われますので、ある程度、綿製の着物もあったものと
思われます。(古い辞書は、ウェブで閲覧出来ました)
ヤン・ステーン、 ドゥローイング・レッスン。 着物としての推定:安藤

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上の絵の部分拡大図、別のソースを使用。

ボル、 自画像。 着物としての判断者:アムステルダム国立美術館

wikimeia
アムステルダム国立美術館に所蔵されている資料について:
アムステルダム国立美術館(レイクス・ミュージアム)には当時の着物が残っています。
このアムステルダム国立美術館(Rijksmuseum Amsterdam)では
1675-1760年の着物所蔵品をホームページで公開しています。
7枚ほどが、ご覧になれます。直にご覧になれるリンク先は
下記です。クリックすると別ウインドウで開きます。
http://www.rijksmuseum.nl/zoeken/search.jsp?query=Japonse%20rok&lang=nl&start=0&focus=assets
(注:このページはオランダ語のみです。他のページには、英語で見れるものもあります)
着物の大型画像1枚をご覧になるには、下をクリックして下さい。
http://www.rijksmuseum.nl/assetimage.jsp?id=NG-NM-1106
ヴォルテール Voltaire(1694-1778)1765年と
フランス革命の発端となったバスティーユの蜂起(1789年)。

1917年、1951年の本を使用、合成。
つぎに、18世紀の話ですが、フランスの文学者・哲学者・啓蒙家であり、フランス革命に
多大な影響を与えたと思われるヴォルテールの話しを、少しご紹介いたします。
フランスなどでは、18世紀を「ヴォルテールの世紀」と呼ぶほどの人です。
上にリンクを
掲載しましたアムステルダム国立美術館にヴォルテールの
高さ32cm程度の、小さい彫刻かあるようです。
この像の服も
"japon","Japonse rok"の
さらにもう一つの呼び方
"Kamerjas"を
着ているそうです。ヴォルテールは
「ケンペル」の著作をとうして、
日本のことを
ある程度知って
いた人で、日本びいきです。
彫刻のリンク
先は、下記です。
http://www.rijksmuseum.nl/images/aria/bk/z/bk-16932.z
"Kamerjas"という言葉ですが、上に書きました1766年の辞書では
見当たりませんでした。代わりに、"kamer-rok"と言う言葉があり
これが、"japon"と同じ意味のようです。"kamer"は
"room・部屋"を意味しています。
フォイス Ary de Vois (151-1712)。 着物としての推定:安藤

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Jan_Verkolje, Antonie van Leeuwenhoek 1670-1693年頃。 着物としての推定:安藤

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Jacob Ochtervelt。 着物としての推定:安藤

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ナイフェ Matthijs Naiveu (1647-1726) 1700年の作品。 着物としての推定:安藤

上の絵は、父親が、出産直後の部屋へ、生まれたばかりの
子供の様子を見に、入って来た情景のようです。
左側の父親と思われる人物が、
着ている
服が、着物と考えられます。
雑談:この時代のオランダ・ベルギーの絵画を見ていまして
上の絵のような、出産直後の様子を描いた作品が
何枚かありました。ただ、どうも、生まれたての
赤ん坊の描き方が、人形的で生気を
感じません。これは、西欧の当時の
習慣で、この時期の赤ん坊は
手足が動かせないほどに
押さえつける習慣
によ
るものの様です。
掲載できる作品がないのですが、上に掲載した人たち以外で、
着物を着た肖像画を、描いていると言われている画家には
Bartholomeus van der Helst(1613-1670)
Anna Elisabeth van Deede(1652-1682)
Jacob Feitama Jr(1698-1774)
(この方の作品は、レイクス・ミュージアムのウェブ内に有)
Nicolaes Maes (1634-1693)
(この方の作品も、同上)
Frans Hals(1582-1666)
などの画家がいます。
和服・着物の影響・特徴をもつ服装。
「現代科学の父」と言われる人。
イギリス、 "Banyan"を着たアイザック・ニュートンの肖像画(晩年)、1709-1712年頃。

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私が、この絵を見て、着物か、着物に近いものではないかと思ったのは
形や質感だけでは無しに、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスと言う
方が、1585年頃にまとめた、未刊の著作「日欧文化比較」の中で
述べている、下記のような言葉が思い浮かんだことにもよります。
「われわれの間ではいつでも衣類の地は裏地よりも良質である。
日本では貴人(セニヨール)の胴服dobuqusは、可能ならば
その生地より良い裏地を付ける」岩波書店1965年
岡田章雄氏訳より引用。注)胴服とは、一般の
着物の上に着る、羽織の類です。
上の絵の服の袖口、襟に見られる柄は、金糸、銀糸系で
唐草文様のように思われます。唐草文様・アラベスクの
分布は、西はイタリアから、東は日本まで、範囲が
大変広いものであるのと、柄がイマイチ、
はっきりしないため、どの地域の柄か
特定しずらいように思います。
英語圏では、上の絵のような服を"Banyan"と呼ぶそうです。
上の服が、日本の着物そのものでないにしても
着物の影響を強く受けた服であることは
ほぼ
確実です。また、"Banyan"の
元の意味は、カジュマロ系(?)
の木の名前です。
"Banyan"と呼ばれるこのタイプの服は、"Banyans,Baians
Banjans,Indian nightgowns,Indianなどとも
呼ばれています。ここで使われている"Indian"
と言う言葉は、必ずしも"インド(の)"だけを
意味しているとは限りません。東南アジア,
さらに,東アジアも含めて呼ばれ
ていることがあります。
ただ、イギリスは、日本との直接交易の期間が
1600年代の前半にあっただけで、
あまり
長くはありません。着物を日本から
直接入手する機会はあまり
なかったと思われます。
また、イギリスは、絹を自国生産(養蚕)することが
ついぞ出来なかったとも言います。
どうも、イギリスでの、この"Banyan"と呼ばれる服の
流行は、"Tea"(お茶)の流行と、ほぼ流れが
一致しているように感じられます。
イギリスは、このお茶(緑茶、紅茶)を、1860年代まで
ほとんど中国から輸入しています。インド地域の
栽培が本格化するのは、1860年代以降です。
1700年代の始め頃の風刺画には、ご婦人方が
テーブルを囲み、お茶を楽しんでいるものが
ありますが、このご婦人方が着ている服
が、この"Banyan"系の服です。
"Banyan"の話の最後に、ネット上でこの服を
解説しているページを1つご紹介します。
University of Delawareと言うUSAの
ホームページ内です。安全上問題
は無いと、思われますので
リンクいたします。
下をクリックいたしますと別ウィンドウで開きます。
英語ですので、ヤフー翻訳などでご覧に
なるのも、良いかと思います。
http://udel.edu/~orzada/intro19thC.htm
日本の着物の話の最後に、オランダの美術館・Westfries Museumのホームページを
ご紹介します。下のリンク先をクリックしていただくと、ご覧になれますが
10分程度のビデオが流れます。「オランダ東インド会社物語」と言う
オランダ語のナレーション入りのものです。私には、95%以上
ナレーションの意味が分りませんが、日本との関係が
多く取り上げられているのが分ります。
取り上げられている内容は
下記のような事項です。
日本:ヤパン、日本の:ヤパンセ、俳句:ハイク
レンブラントと和紙:レンブラント、ヤパンセ・パピエ
着物:キモノ、ヤポンセ・ロック、出島:デシマ
将軍:ショーグン、お茶:テエ
着物を着た肖像画4枚
扇子、籠、仏像など
です。
http://www.wfm.nl/index.php?option=com_playlist&task=detail&Itemid=97&catid=27&id=10
注)音が、大きめに始まるようなので、音量を抑えると良いです。
「着物としての推定:安藤」と書きましたのは、当ページ作者、安藤の
判断が、大きいことを意味しています。このように書きました画家
の方についても、作品を指定していない状態で、これらの画家が
「着物を描いている、描いているようだ」との指摘は
多くはないのですが、あるものもあります。
資料について:掲載した絵の下に出所を記載していなものは
海外のフリーソースをもとにレタッチ加工したものです。
メールアドレス:hatuzawainfo@mail.goo.ne.jp
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制作・責任:安藤 勇
2008/07/31
|
添付:ご参考資料。 |
あまり重要とは思われませんが、多少の御参考には
なりそうな写真と絵を、下へ掲載いたします。
上に掲載の「伝・徳川綱吉の寝間着」が載っているページ、1ページ全体。

「日本歴史考古学」後藤守一著、昭和12年より。
着物の形をした掛け布団と思われる絵。「夜着・かいまき」の類。
勝川春章(1726-1792) 「ほととぎす」部分(上下をカット)。

日本風俗画大成 昭和4年より。
季節としては、現代の暦で、4、5月頃を描いています。
"India"が、現在のインド地域だけを指した言葉ではなかった1例。
「Mercator・HongiusIndia Atlas」 1633年 アムステルダム発行。

1952年発行の本を使用。
以上。